モダニズム建築運動の季節
Proposal for Ukrainian theater international design competition by Kawakita. 1930, from: Kenchiku Gaho, 22-6, Jun. 1931.
川喜田煉七郎が設計した音楽堂ホール計画案「霊楽堂」(1926年頃)の内部ドリーイング. 出典:『建築新潮』第8年第3号(1927年3月).
日本の近代建築史において、1920年はモダニズム建築運動の季節の始まりであった。運動の嚆矢とされる分離派建築会がこの年に結成されたからである。この会は同年に東京帝国大学建築科を卒業した同期生6名の集まりだったが、「芸術としての建築」を旗印に、国家を背負ったアカデミズムのなかで、ロマン主義と個人主義を掲げてちょっとした造反を試みたのだった。とはいえ、そこはエリートの再生産機構のなかでのこと、卒業後はメンバーの多くが逓信省営繕課や大手建設会社設計部に就職し、残ったメンバーも当時準備中だった平和記念東京博覧会の臨時建築部に職を得ていった。エリートたる所以というべきか、彼らの構想が実現する機会は早々にやってきた。平和記念東京博覧会のパビリオンや電信局局舎として、つい前年までは製図板の上にとどまっていた分離派建築会スタイルがたちまち姿を現わしていったのである。1912年4月、川喜田煉七郎は蔵前にあった東京高等工業学校附設教員養成所に入学した。そのわずかひと月ほど前、上野の不忍池Shinobazu no ike周辺では平和記念東京博覧会が閉幕していた。浅草育ちの川喜田にとってはどちらも目と鼻の先、博覧会を横目に学校に通うという位置関係であった。
川喜田が建築を学ぶことになった東京高等工業学校附設教員養成所建築科は、工業学校の建築科教員を養成する機関である。明治以来急速に整備されてきた実業教育制度は、近代国家の建設を円滑に運ぶための職階と対応している。頂点に立つエリートから底辺の現業員までに細かく割り振られた権限と責任、そしてその軽重。この学校の長々しい名称が象徴しているのは、まさにこのヒエラルキーなのである。
たしかに制度は明治以来の堅固さを残していただろう。しかし、川喜田の在学は大正のこと、そこにはやはり時代の風が吹いていた。川喜田と同期で、卒業後一緒に神奈川工業学校に赴任した電気科出身の副島一之の回想は、大正デモクラシー期の青年たちの様子を生き生きと伝えている。
建築の川喜田君は天才型の奔放な情熱家だった。私たちはそれぞれ若い勝手な熱を挙げて、表現派の絵画や映画のこと、築地小劇場のチエホフのこと、ドイツの民主社会主義のことなど話し合うのだった。1
こう述べる副島自身、アインシユタインにあこがれヴァイマール憲法下のドイツへ留学を夢見る青年だった。副島も川喜田もそれぞれに夢を抱いて将来を見据えていただろう。そして副島は現実の世界にとどまった。戦後になってこの回想を書いたときの彼は同校の校長だった。教員養成所の出身者にとって、それは頂点に上り詰めたことを意味する。ある夢は諦め、またある夢はかなえられたということだろう。しかし、川喜田は現実から飛び出してしまう。教員養成所に通った日々、彼の関心は通学路の先にではなく、その脇の分離派建築会のほうにあったのだが、それがはっきりするのはもう少しあとのことである。
わずか1年ほどで教員を辞めた川喜田がしたこと、それは山田耕符に作曲を師事することだった。しかもその理由は「〈氷結する音楽〉を創出せんがためなり」だという。「建築は凍れる音楽である」というシェリングの言葉を引き合いに出して、建築設計のために音楽を学ぶ必要があるというのだ。そのきっかけとなったのは、山田耕符と北原白秋の共同主幹によりアルスから発行されていた詩、音楽、美術の芸術雑誌「詩と音楽』だった。在学中から西洋音楽に興味をもっていた川喜田は、第2学年に進級した1922年の末、この雑誌で「音楽の法悦境」と題された文章に出会う。それは山田が、音楽芸術によってもたらされる究極の精神的境地とそれを可能にする音楽のユートピア構想だった。
最近に於いて私は、ふとこんなことを考へるやうになった。といふのは、外でもない。一つの新しい音楽の殿堂を築くことである。それは謂ふ所の音楽堂でも、劇場でもない。特殊な組織のもとに建てられた礼拝堂か、祈祷場の如き楽堂である。この殿堂は人里離れた静かな森の只中に建てられなければならない。(中略)個々人は真実の孤独な自分に帰って、静かに、厳粛に、音を聴き、内に聴き、音と一つになって敬慶ないのりの心を、円天井の屋根を通して見えざる神の御座へと昇らせる。そして彼等は、浄められ、高められ、美化された心で、又沈黙のま、静かに此の聖堂を出て、ひとりびとり、森の入り口へと静かに歩み去る。2
川喜田は、在学中から短い就職期間を経て山田に師事した間、この「音楽の法悦境」を主題としたふたつの作品をつくった。とくにその二作目「霊楽堂」は、音楽とともに人の精神に働きかける象徴的な建築空間を、40枚に及ぶ大判のフリーハンド・ドローイングとして描いたものだった。1927年1月、分離派建築会の第6回展に応募された同案は高い評価を受け、建築雑誌にも掲載された。これが彼の建築ジャーナルへのデビューとなる。教員養成所入学以来意識し続けていた分離派建築会の活動。頭のなかを支配していた芸術としての建築。川喜田は今やそのただなかに進み出てきたのである。
1927年、川喜田は山田耕符の紹介で遠藤新の事務所に就職する。遠藤は帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの愛弟子として知られるが、ライト離日のあと自らの事務所を構えて住宅設計を中心に活動していた。川喜田にしてみれば、これがはじめて経験する設計実務だったが、ここも長くは続かなかった。
その頃の自分は、メーテルリンクや「悪の華」やヴエルレイヌやマラルメや三木露風や、ベルグソンを読んで、栄久町のある寺の墓場の隅に四畳半の家をつくっていた。谷崎氏の小説の中の女装して浅草を歩く男程、デカダンではなかったが、浅草を背景とした仕事は、そんな意味で、自分にとって大きな魅力になった。仕事は夕方と朝早くが一番よく出来た。そして、夜はたいてい一人で浅草を散歩して歩いた。3
「その頃」というのは1928年のこと、関東大震災から5年を迎え、東京市の復興計画も後半に入っていた。地下鉄の浅草上野間開通、隅田川六橋の建造、仲見世の鉄筋コンクリート造化といった大規模事業が進む一方、公園六区に雨後の竹の子のごとく増殖するバラックの活動写真館、十二階下銘酒屋群の玉の井移転、新堀川の暗渠化など、震災後の変化はさまざまな姿で街の深部に至っていた。
その新堀川に沿って浅草の盛り場に隣接する一画が栄久町である。このあたりは浅草本願寺の末寺が集まる寺町である。川喜田はその墓場の一隅に隠棲して、象徴派の詩を耽読し、谷崎潤一郎の小説の主人公になぞらえて、変貌しつつある浅草を夜な夜な俳佃する生活を送っていたのである。
墓場のアトリエで彼が没頭した「浅草を背景とした仕事」とは、1928年に発表された「浅草改造業」である。それは、浅草公園の中心部を覆う壮大な都市計画案であった。ひょうたん池と観音堂に替えて半円形の大池に姿を映してそびえ立つ「新観音堂―更正する市民のカスエドラル」、無秩序に増殖したキッチユな活動写真館群に替えて24もの映画館を立体街路で連結したシネマ・コンプレックス「映画館のグルッペ」、寺院風の仲見世に替えて商店やレストランが空中遊歩道沿いに軒を並べる「民衆娯楽地の三層街計画」。ほかにも「娯楽地に生活するもののアパートメント」「寺院に生活するもののアパート」「市民の娯楽園(現在花やしきを改造)」「職業紹介所、身上相談所、等の社会的施設」「区役所、警察署、銀行、郵便局、消防署等をふくむビルディング」などが機能集約的に配置される。そのどれもが震災以前から浅草にあったものだが、すべてが新しい姿に変えられている。「改造案」と名付けられた所以である。ここには、浅草の過去と未来、夢と現実が混淆している。
しかし、同案が浅草の中心市街地南北約800メートル、東西約500メートル、現在の浅草1~2丁目、雷門1~2丁目の既存街区にぴったりと重なることを見過ごしてはならない。内容は空想的だが、枠組みは現実的なのである。このことは、川喜田の精神が日常の経験世界に向かい始めたことを示している。
かつて彼は、教員養成所の日常的現実から「人里離れた静かな森」のユートピアにひきこもった。そして、復興の槌音響く日常の昼とデカダンスに覆われた世紀末の夜が践脱とする世界を通って、今再び現実の浅草に戻ってきたのである。しかしそこは、もはや逃避の対象ではなかった。いまや「改造」という積極的な行為の対象なのである。現実の日常世界における建築、すなわち設計実務からすれば、ユートピアにひきこもってなされる空想的な設計など、なんの意味もない。しかし、ユートピアの時空を自由に飛び回った思考が再び日常に戻ってきたとき、そこでなされる行為は、かつてとはまったく別なものとなるのである。
「浅草改造案」以降の川喜田は、精力的に建築計画案を発表していった。「民衆映画館兼劇場」「民衆映画館兼かげえ劇場」、「十万人野外映画館」、「東京街路改良案」。それらはやはり設計実務ではなかったが、だからこそ彼はそれらが単なる夢想ではないことの証明に腐心した。1929年から1930年にかけて、彼が建築雑誌上に発表した海外事例の紹介や文献の翻訳―ル・コルビュジエ、アドルフ・ベーネ、ルードヴィヒ・ヒルベルスアイマー、アレキサンダー・クライン、ラッシュ兄弟―は、その証明のために行なった学習のいわば副産物であった。
1929年、川喜田は教員養成所の後輩を率いてAS建築会を立ち上げ、展覧会や誌上発表、建築評論などを積極的に展開し始めた。この前年、かつて彼が憧れた分離派建築会はすでに立ち消え、代わって創字社がマルクス主義的な社会意識を前面に押し立てた計画案を発表し始めていた。1920年代初頭に芸術としての建築を標梼して開始された建築運動は転換点を迎えていた。そのうねりのなかで川喜田は、もっともアクチュアルな運動家のひとりになっていくのである。
川喜田煉七郎が設計した都市計画案「浅草改造案」(1928年)の模型. 出典:『建築新潮』第9年第11号(1928年11月).
ウクライナ劇場国際設計競技川喜田応募案の内部機能を説明した図. 出典:『建築工芸アイシーオール』第2巻第9号(1932年9月).
ユートピアとリアリティ。1929年の建築運動は、この相反する要請を背負って困難な局面を迎えていた。課題は二つあった。ひとつは計画案の技術面での実現可能性を示すこと、いまひとつは計画案にリアルな社会意識を反映させることである。前者については、科学的な研究成果や海外の先進事例を示すことで一定の説得力をもたせることもできた。しかし、問題は後者であった。運動におけるリアルな社会意識は既成の社会体制に対する批判を意味したから、たとえば「労働者診療所」(海老原一郎Ichiro Ebihara、1929)や「共同組合アパートメント」(今泉善一Zenichi Imaizumi、道明栄次Eiji Doumyo、1930)のように、計画案を、建築内容を伝達する手段としてではなく、政治的イデオロギーを表明する手段として扱ったのである。その結果、建築家の社会意識がリアルであればあるほど、現実の社会体制でそれが実施される可能性は低くなるという図式が生じた。
さらにこの二つの課題の背後には、運動に関わった建築家たちが正面切って論じることを避けた問題があった。それは建築の美学的側面である。建物が造形物である以上、その美学が問題になるのは当然であるにもかかわらず、彼らはこの問題とリアリティとを択一的にとらえようとした。結果として、意匠にこだわることは社会認識のリアリティをないがしろにすることだという風潮が生まれたのである。
こうしたリアリティ獲得への切実な思いは、やがて計画案の作成と展覧会による発表というそれまでの建築運動の基本路線に対する懐疑へとつながった。川喜田の次の発言は、計画案の方法的有効性を疑うばかりか、むしろそれが運動の進展を阻害するものときえ考えられているかのようだ。
「我々が建築発表の形式に於て先づ要求するものは、所謂「提案」でも「設計」でもない。「何がこれを計画せしめたか」をはっきりと大衆に直接に知らしめる事である。在来の作品展覧会に於てその模型やパースベクテイヴの裏にかくれて見えなかったものをしっかりと掴みだし、在来の実験室の特殊な報告にすぎなかったものをあく迄一般化し、方向づけていく事である。4
日常的現実へ運動を帰結させる回路が閉ざされたまま、運動の内部だけでリアリティを高めようとすることは、建築運動の態勢と方法を大きく変貌させることになった。その具体化が、新興建築家連盟Shinko Kenchikuka Renmei(The League for New Architects)である。
この連盟は、1930年7月18日、創字社Souu-shaやAS会AS-kaiといった既成の運動団体ばかりでなく、当時の建築雑誌上で活発に議論を交わしていた若手建築家や大学の研究者官庁の技術者などの準備委員により設立された。10月の第1回大会では100名を超える会員を集め次のような「1930年宣言」と事業計画が発表された。
我々は、科学的な社会意識のもとに団結して、建築を理論的に技術的に獲得する。我々は、明日の正しき強大なる建築の更正のために、今日の行きつまれる社会的生産関係の桂桔から建築を解放せんために、現実の科学的探求と史的発展の必然法則の把握とによって之を実践する。我々は内部清算と分担的努力によって、現代建築界のあらゆる反動的傾向を打破す。
1 研究部。建築史及び建築様式の研究。材料及び構造の技術的研究。調査。建築計画(標準化大量生産の研究、住居問題、都市計画)。討論会。講習会。
2 宣伝部。講演会、展覧会。編集及び出版。新聞雑誌の利用。
3 実行部。建築設計並びに施工。工芸品の産業化及び一般商業美術の設計並に施工。講習会、研究所の経営。
4 批判部。建築設計の抗議、建築家に対する抗議不良出版物への抗議。懸賞制度の改善。建築設計組織及び施工組織の改善。学校教育の改善。
5 互助部。職業紹介。失業救済。仕事の相互融通。購買利用。
6 連絡部。国際的連絡。各地建築家並に団体の綜合。姉妹技術家並びに批評家との連絡。5
ウクライナ劇場国際設計競技の川喜田煉七郎による応募案(4等入選)(1930年). 出典:『建築畫報』第22巻第6号(1931年6月).
川喜田も準備委員として設立に関わり、宣伝部の代表幹事として新たな活動方法を検討していた。ウクライナ劇場国際設計競技への応募案募集の知らせがもたらされるのは、ちょうどそのようなときである。
ソビエト連邦ウクライナ州の首府・ハリコフ市に4000人収容の大劇場を建設するという議案は、ソ連囲内で1929年前期に承認され国際設計競技に付されることになった。圏内で指名競技が行なわれる一方、1930年6月、五カ国語―ウクライナ語・ロシア語・ドイツ語・英語・フランス語―で書かれたプログラム3000部が世界各国に送られた。日本には、ソ連大使館を通じて日本建築学会Architectural Institute of Japanにもたらされた。『建築雑誌』の1930年8月号は、募集要項の抄訳とともに(Citation)「建築物は5年後に完成のよていなり(中略)原本は建築学会事務所に在りますから御希望の方はそれに就いて御覧下さい」と報じていた。
川喜田は自らの応募準備を開始すると同時に、募集要項の複写と敷地図の配布、日本からの応募案一括発送のソビエト大使館への交渉など、新興建築家連盟幹事としての任務も怠らなかった。そればかりか、『国際建築』に募集要項の要点解説を執筆するほか、「我我仲間の参考のよすがに」とル・コルビュジエ設計のジュネーブ国際連盟会館に関する記事を訳出した。他の応募者の有利になりかねない行動を彼がとったのは、設計競技への応募をあくまでも建築運動としてとらえたからだろう。応募締め切りは12月25日、結局、日本からの応募は川喜田Kawakita、創字社Souu-sha、土橋長俊Nagatoshi Tuchihashi、加藤秋Aki Katoと野呂英夫Hideo Noroの4組であった。
この締め切りの前月、11月13日付け読売新聞7面の中段に「建築で『赤」の宣伝/凡ゆる方面に拡がるナップの活動/『歳末闘争』を当局厳戒」の大見出しが踊った。記事は、新興建築家連盟の結成を、「極左芸術思想団体」ナップ(全日本無産者芸術連盟)の「大衆赤化歳末闘争」の一環と報じていた。一時は100名を超えていた連盟もこのデマによって退会者があいつぎ、翌12月の臨時総会で解散が決まる。現実社会への帰結の回路は、それを開こうとしたとたんに現実の側から封じられたのである。
ウクライナ劇場案国際設計競技の結果が明らかになったのは、翌1931年の5月だった。日本からの応募では、川喜田が唯一の入選だった。結果を知ってしまった眼には冷静な判断は無理というものだろうが、それでもなお、日本のみならず世界の応募案を見渡しても、川喜田案は出色の出来というほかない。舞台機構、上映システム、それらの組み合わせパターン、ホワイエから客席に至る動線処理。日本からの他案が、モダン・スタイルの外観をとりながら内容においては従来の平凡な劇場にとどまっているのに対し、川喜田案ではピスカートアErwin PiscatorやメイエルホリドMeyerhold、ヴエルトフDziga VertovやエイゼンシユテインEisensteinといった当時のドイツやソ連における演劇や映画の前衛的動向に対応した創意が各所に凝らされていた。その活用例は、巧妙なプレゼンテーションで生き生きと描写され、前のめりで演説するレーニンのシルエットが描き込まれるなど、主催者をくすぐるさりげない演出も忘れていない。
川喜田入選の報を受けて、か つての新興建築家連盟の 仲間が開 いた祝賀会の席上で、彼は次 のように挨拶した。
私の応募案を御覧になりまして、何だこんなものが、こんな案が・・・とお思ひになるお方が、多ければ多い程、今日の会は有意義になると存じます。(中略)私の小さな僥倖に対する頭からの現実的批判と暴露が、さかんに行はれ、「時間さえつくれば、だれでも出来る事なんだ。」といふ一般的な意識によって、この会合が我々の国際的な大進出の第一歩に(万一でも)役立ったらうれしいと思ひます。(中略)私この案を、一個の建築技術者としての立場からやったにすぎません。我々の手元での建築のコンペチシヨンが殆ど美術的な趣味的なファサードのでっちあげに終り、単なるドラフトマンとしての仕事である事をあきたらなく思っていたやさき、こんどの応募規定を見てやる気になりました。6
これは社交辞令でも謙遜でもない。明らかにモダニズムの勝利宣言なのである。自分は、整備された募集要項に対応して客観的に機能主義を徹底させた技術者に過ぎない。だから誰がやっても同様の結果になるはずで、これは私の偉倖などではなくモダニズムの勝利なのだと。
こうした発言は、日本における建築運動では硬直したスローガンでしかなかった。しかし今はちがう。地上のユートピアを実験しつつあった(と考えられていた)ソ連の話なのだ。彼地では日本の建築運動が目指していた環境は、すでに実現していた(と思われていた)。川喜田はその枠組みのなかではじめて、理念家としてではなく実務家として、運動家としてではなく建築家として振る舞うことができたのである。
しかし、川喜田に対しては、必ずしも好意的な反応ばかりではなかった。ソ連の設計競技ということから、新興建築家連盟に対するかつてと同様のデマが、このときにも流されたという。
私はそれをきいたときさすがにいきどほらしい気持におそはれた、・・・殊に、それが私の計画に対して、内容如何に関せざる気ぎらい的動機から出発したものである事を察したとき。(中略)私は日本の建築界における一個の技術的なプロテスタアとして、かかる啓蒙的な運動のために、死までを期して闘ふ事を辞せない。7
新興建築家連盟が描 いた運動を現実に帰結させるプログラムは、始動することなく頓挫した。連盟の解散以降、 運動の機運は一気に衰退していった。建築運動の季節は 終わったのである。そのような時期に、この川喜田の発言は何を意味するのか。悲壮な覚悟なのか、それとも虚勢か。いずれにしても、川喜田の1930年代の活動は、この認識から始まることになる。
1930年のクリスマス、ウクライナ劇場国際設計競技への応募をなんとか間に合わせて息をつく間もなく、年明け早々から川喜田は精力的に動き始めた。
まず春先から、モホイ=ナジMoholy-Nagyによるバウハウス叢書の一冊、von material zu architektur 1929(邦題「材料から建築へ」)の翻訳連載を始めた。次に、建築学科生など年少の友人を募って、自宅で新建築工芸研究所なる勉強会を始めた。ここでは、銀座の飲食店のカウンターや椅子の寸法を測ってまわるなど考現学的な調査が行なわれた。6月には、前年にパウハウスから帰ってきていた東京美術学校助教授の水谷武彦、建築家の市浦健Ken Ichiura、商業美術家の潰田増治Masuji Hamada、川喜田Kawakitaに資料や人脈を提供した仲田定之助Sadanosuke Nakada、美術評論家・板垣鷹穂Takao Itagaki、文化学院創設者の西村伊作Isaku Nishimuraとともに「生活構成研究所」を立ち上げ、展覧会と講演会を行なった。さらに11月には『建築工芸アイシーオール」という雑誌を創刊した。これは建築書籍出版社の洪洋社がそもそも建材の広告用パンフレットとして企画したものを(Citation)「ソックリまかせてもらい(中略)月々編集費として30円」8をもらって川喜田が独力で編集発行したものだった。
一見したところばらばらにみえるこれらは、やがて大きな目論見のもとにひとつの活動へと統合されていった。それが、1932年6月に銀座の三ツ喜ビルMitsuki Buildingに開設された新建築工芸学院Sinkenchiku Kougei Gakuinnである。その目的は「新しい時代にたつ建築と工芸のすぐれた設計家を理論的に技術的に養成する」9と謳われた。学院といっても、私塾のような小さな組織である。指導者は、川喜田以外には前出の市浦Ichiura、牧野正己Masami Makino、土浦亀城Kameki Tsuchiura。生徒の募集人員は、昼間部15名、夜間部20名。修業年限6カ月とされていた。
目的の文面からも、指導者が全員建築家であることからも、学院が当初目指していたのが建築家と工芸家(家具デザイナー)の養成であったことは明らかである。それが2年後の最盛期には、織物、洋裁、建築、絵画、演劇、工芸など全6コースを開設するにいたった。この点は、しかし、当初の目的が変化したことを意味するものではない。川喜田は生活構成研究所設置に際して、すでに「生活に関するあらゆる部門をその真実の姿にひき戻し、夫を新たに正しい精神と新しい感覚で構成」することが「今迄、となへられていたカテゴリイから我々の仕事をはっきりと離して考へる」10ことになると説いていた。つまり、建築や工芸を含めた生活の総体の変革が目指されていたのである。
川喜田が組織した「生活構成展覧会」(1931年6月)会場風景. 出典:『建築畫報』第22巻第10号(1931年10月).
川喜田が主宰した「新建築工芸学院」があった三ツ喜ビルの窓から手をふる学院生たち. 出典:『建築工芸アイシーオール』第2巻第11号(1932年11月).
コースの拡充によって、指導者として学院に関わる人も増えた。建築関係では、岡田哲郎Tetsuro Okada、山脇巖Iwao Yamawaki、デザイン・工芸では西川友孝Tomotaka Nishikawa、橋本徹郎Tetsuro Hashimoto、美術では宮本三郎Saburo Miyamoto、新海覚雄Kakuo Shinkai、演劇では園池公功Kinnaru Sonoike、林和Yawara Hayashi、野崎韶夫Yoshio Nozaki、織物・洋裁では山脇道子Michiko Yamawaki、影山静子Shizuko Kageyamaなどである。学院は授業以外にもさまざまな活動に開放されたので、サロンの様相を呈し、多彩な人士が出入りした。定期的に開催される講習会では舞台美術家、映画関係者、音楽家などのゲストが招かれたし、川喜田が関係していた諸団体、日本トロツケンバウ研究会(青山忠雄Tadao Aoyama、市浦健Ken Ichiura、蔵田周忠Chikatada Kurata、土浦亀城Kameki Tsuchiura)や銀座演劇研究所(林Hayashi、川喜田Kawakita)、演劇行動(坪内士行Shiko Tsubouchi、濱村米蔵Yonezo Hamamura、水谷竹紫Chikushi Mizutani、遠山静雄Shizuo Tohyama、園池Sonoike、林Hayashi)はここを活動の場としていた。また実現はしなかったものの、CIAM(近代建築国際会議)第四国会議への参加準備もここで行なわれた。
学院開設に先立 って創刊されていた『建築工芸アイシーオール』Kenchiku Kougei I See Allには、巻頭に次のように記されていた。
世界をあげて今、技術の時代がはじまった。すべての芸術、科学はしっかり技術的に綜合しようとしている。我々は建築と工芸を囲んで、新興のこの芸術と科学の中から大衆によびかける。ここでは、むづかしい、まはりくどい一さいの文句や算数方程式の羅列が抹殺されてわかりやすい図解的な方法で新しい建築と工芸が啓蒙される。しかつめらしい教室や一切の古い束縛から開放された、自由な野天学校だ。11
ここで雑誌が学校にたとえられているように、『建築工芸アイシーオール』と新建築工芸学院は、やがて不即不離の関係になっていく。学院にとってこの雑誌は教科書であり、『建築工芸アイシーオール』にとっての学院は新しい記事や特集の源だった。毎号には「質問券」が綴じ込まれており、読者には1枚で質問、2枚で講習会に割引参加という特典があった。
わけでもその機関誌としての役割が発揮されたのは、「アイシーオール地方支部」設置においてである。支部といっても、要は同誌の定期購読者グループなのだが、直接学院に来ることができない読者のために無料の出張講習会や教材頒布が行なわれる一方、支部の活動も同誌に紹介された。甲府、福島、名古屋(名古屋高等工業学校)、京都、和歌山に支部ができたが、なかでも群馬県の高崎支部とは、当地の文化振興に寄与した井上房一郎Fusaichiro Inoueや後に高崎工芸界に貢献する水原徳言Tokugen Miharaによって積極的な交流が図られ、学院で設計した家具が当地で生産されて、通信販売されるようにもなった。
銀座の新建築工芸学院、その機関誌『建築工芸アイシーオール』、そして地方支部という三者の連動。このようにみてくるならば、川喜田の教育活動がすぐれて運動的な性質をもっていたことがわかるだろう。しかも、1920年代末期の建築運動が、大衆との連帯を標携しながら専門家のうちにとどまり、規模の拡大を計ろうとしながら東京という一地域に限定されていたことを考え合わせるなら、かつての建築運動が獲得できなかった大衆的、地域的な広がりを得ることに成功したといえるだろう。
こうした運動的性質は、新興建築家連盟が標榜した内容と比較するとき、一層明白になる。連盟の宣言「建築を理論的に技術的に獲得する」と学院の目的「新しい時代にたつ建築と工芸のすぐれた設計家を理論的に技術的に養成する」は同義といってよいし、連盟の「研究部」の事業としてあげられていた研究や調査、「宣伝部」の講演会や編集出版、「実行部」の設計や工芸品の産業化、連絡部の国際的連絡、内部連絡などは、これまでみてきたように新建築工芸学院を拠点とした活動においてまがりなりにも実行されていたのである。
川喜田がかつて「死までを期して闘ふ」といった「啓蒙的な運動」とは、この教育活動のことだったのだ。しかしそこには、悲壮感や、かつての建築運動がまとわりつかせていた教条主義的な深刻さは微塵もない。溌刺とした大衆路線で川喜田の建築運動は続けられたのである。
川喜田による「構成教育」の基本概念図. 出典:『建築工芸アイシーオール』第2巻第11号(1932年11月).
「構成教育」とは我々の学校|銀座・新建築工芸研 究講習所で実験的に実践している技術教育・技術の共同研究のメソードです。(中略)我々の主張し実験し、少くもそれをめざして努力していることを一口にいへば「理論により、頭によると同時に、実践により、手によつて、技術を正しく生産的に理解する」といふことです。12
新建築工芸学院を軸に展開した教育活動を、川喜田は「構成教育」と呼んだ。構成教育といえば、今日ではバウハウスの予備課程に由来する造形基礎教育を指すことが多い。色彩、形態、材質などの造形要素を抽象的に扱う造形訓練のことである。たしかにその日本における導入経路をさかのぼれば、新建築工芸学院を経て生活構成研究所Seikatsu Kousei Kenkyusyo(Reserch Institute of Design for Living)で水谷武彦Takehiko Mizutaniが行なった「構成基礎教育」にたどり着く。しかし、この側面を注視しすぎると、構成教育の理念が見落とされることになろう。現に今日、川喜田の構成教育は完全に誤解されている。(Citation)「勿論、〈構成教育〉といっても、単に、造型的な製作を目的とした教育といふ意味ではないつもりです。我々はもっと大きい眼で、もっと大きなところからこれを見たいと思ひます」13と当人がいっているにもかかわらずにである。じつは、そうした誤解は当時からあった。その解消に彼はずっと苦労することになるのである。
川喜田の構成概念は、段階的にふたつに分けられていた。ひとつは、実用的な目的をもつ構成で「生産構成」seisan kousei(human performance with aim)と呼ばれた。この生産とは、生活に関するあらゆる生産部門を指し、前項でみた新建築工芸学院の各コース―建築・演劇・織物など―がこれにあたる。それ対して、目的をもたない構成は「抽象構成」chusyou kousei(human performance without aim)と呼ばれた。これは人間の感覚を鋭敏にするための訓練で、(Citation)「経験のうちから大衆自らの眼と手でもって色々な技術を発見させる」14ことに役立つとされた。重要なことは、この「抽象構成」は、あくまで「生産構成」のための(Citation)「手ならし的間接的な予備練習」15と位置づけられていたことである。(Citation)「我々は抽象構成を単に便利な目と手の練習法と心得、これとは全く別な構成(生産構成)を実践に於いて持つ事を主張します」16。川喜田の構成教育の中心であり、より重視されたのは生産構成のほうである。それは次のように説明された。
早く云へば自然現象や社会現象の中にある連関性を多勢の活動そのものによって理解するといった方法です。我々の「構成教育」の中心にあるものは「構成」そのものです。これは人々の活動であり、労働であるとも云へませう。(中略)つまりこの活動の周囲に我々は、すべての自然を持ち、更に社会があると見て居ります。例へば構成教育では、水車が廻るとか、机を造る、家が建つとかいふ事を一つの事実として目前でふれたり、見たりして観察し、調査し、又色々な方法で実験してみます。何故そうなるかと云う事を或は我々はどうするかと云う事を、手や目によって了解し様とします。(中略)只現実に対してはっきり眼を聞いた触覚があるばかりです。17
「生産構成」とは人間の活動それ自体であり、まず五感を鋭敏にして自覚的に活動の各場面を観察し、生活自体を把握する。次に自然科学によって(「自然研究」)、さらは社会科学によって(「社会研究」)人間の活動を検討する。こうした過程を経ることによって、人間生活の各場面では、それまでに気づかれることのなかった問題が発見され、その解決方法が模索され、やがては問題が解消された新しい生活像が浮かび上がってくるというのである。
この過程は、学院のカリキュラムでは次のように進行する。「住居」という「構成」の例ではお]、「中産階級の住居」「下層階級の住居」「東京に於けるスラム」を実際に経験し「調査」する(「構成」)造、通風、衛生、日照、プラン」について批判・検討する(「自然研究」)、さらに「我が固に於ける中産階級の個別住居は、如何なる経済的、社会的位置にあるか」「東京に於けるスラムの統計(死亡、出産、疾病等)」「各国との比較」「住居の歴史」について批判・検討(「社会研究」)する。
このように、構成教育ではすべて現実から出発する。それによって構成という営為は「すべてを生きたもの、抽象的でないもの、生活から遊離しないもの」になるとされたのである。
このような現実からの発想は、1920年代の建築運動の発想とは正反対である。かつての建築運動では、まず理想的な生活像が建築計画案の姿で描かれ、その計画案を現実へと帰結させるためにリアリティの獲得が目指されたのだった。しかし、その帰結が頓挫したことはすでにみたとおりである。川喜田の構成教育の構想では、この教訓が踏まえられている。建築運動が陥った観念性を克服しようとしている。リアリティは探し求めるものなのではなく、今ここにあるものなのだと。この意味からも、川喜田の構成教育活動は、活動形式においてのみならず、理念においても近代主義建築運動を批判的に継承しようとするものだった。
しかし、構成教育=生産構成の思想は、建築界では受け入れられなかった。先に示したような、現状の調査にもとづいて建築を検討する方法は今日の建築計画学では常識だが、当時はその建築計画学じたいが学問としては未確立だった。川喜田が住居を例に述べた「社会研究」の内容は、「不良住宅地区改良法」(1927年発布)を受けた住宅調査にも見出せるが、むしろそれは治安政策的な色合いの濃いものだった。「自然研究」の内容も、当時は計画原論keikaku genron(principles for planing)と呼ばれてようやく体系的な研究が端緒につき始めたところだった。こうした研究の方向性の認識は、当時においてはアカデミズムよりも建築運動を担った人々の間で高く、それが建築計画学発達の原動力になったといわれる。川喜田の生産構成は当時にあっては前衛的だったのである。
構成教育は、受け入れられなかっただけでなく、誤解され批判もされた。その要因は抽象構成にあった。これは、水谷武彦がバウハウスで直接経験したヨゼフ・アルバースJosef Albersの「物質形態教育」、ヴァシリー・カンデインスキーWassily Kandinskyの「抽象的形態教育」、モホイ=ナジMoholy-Nagyの「感覚構成」を総合し「構成基礎教育」kousei kiso kyoiku(basic training for design)として川喜田にもたらされたもので、新建築工芸学院では、その存続期間中一貫して続けられた。川喜田はこの抽象構成を(Citation)「個性的な芸術家をつくり上げる代りに、平均した技術家をつくりあげる為めの進歩した教育法」ととらえ、実習を通して観察眼を涵養し、発想の転換(水谷はそれを「飛躍」と呼んだ)を促す方法と考えた。
小屋組といへば、キングポストとクインポストが目に浮び、椅子の脚は四本あるべしと概念的に教へられる教育ではない教育、もっと便利な単純なモンターヂユの技術をだれもの頭や手に流れさせる教育はないものか。一見抽象的に見える外貌故に諸君の屡々冷視するこの構成教育こそ、この認識、この技術を諸君に与える唯一の武器だと断言しよう。18
それは、構成教育=生産構成に移るための準備にすぎないものだったはずだが、しかし外部にはそうはみえなかった。むしろそれは、構成主義的な造形を無批判に模倣するもので、方法としては手工芸的な位置にとどまっていると受け取られたのである。
建築界のこうした反応とは対照的に、構成教育=抽象構成はむしろ美術教育界で注目されるようになった。1932年、抽象構成が『建築工芸アイシーオール』で特集されると、敏感に反応したのは小学校の美術教師たちだった。子どもが育つ場としての生活を主題化し、社会環境が産業化してゆくことを視野にいれたとき、造形教育としての構成教育=抽象構成は、美的陶冶偏重の従来的な美術科教育と比べて興味深い内容を備えていると受け取られたのである。こうして、普通教育における美術科教育の分野では、構成教育=抽象構成はちょっとしたブームになっていった。
早くも1932年7月には高崎支部(高崎市教育会Takasaki Prefectural Boards of Education主催)で、12月には、和歌山師範学校Wakayama Normal Schoolと甲府支部のそれぞれにおいて「構成基礎教育講習」が聞かれた。これらはいずれも当地の教育会主催によるもので、それは、アイシーオール地方支部の少なからずが教師の読者グループだったことを示唆している。
やがて、地方支部で講習を受けた教師のなかには、夏休みを利用して新建築工芸学院の夏期講習会に参加するものも現われるようになっていった。
在京の教師とは緊密な連携が生まれた。研究員として学院の活動に参加した山本亮Akira Yamamoto、下嶋万夫Kazuo Shimojima(深川明治小学校)、武井勝雄Katsuo Takei(永田町小学校)、間所春Haru Madokoro(横川小学校Yokokawa Elementary school)、松川伊勢雄Iseo Matsukawa(京陽小学校Keiyo Elementary school)、山内幸男Yukio Yamauchi(市ヶ谷小学校Ichigaya Elementary school)らは、戦後の美術科教育において構成教育の推進者となっていく人びとでもある。
Cover of Kenchiku Kōgei I SEE ALL, Tokyo: Koyo-sha, 1931–36, Private Collection (Prof. Dr. Hiromitsu Umemiya).
Cover of Kenchiku Kōgei I SEE ALL, Tokyo: Koyo-sha, 1931–36, Private Collection (Prof. Dr. Hiromitsu Umemiya).
和歌山県で開催された教師向けの「構成教育講習会」における川喜田煉七郎(1933年12月). 出典:『建築工芸アイシーオール』第3巻第3号(1933年3月).
彼らの活動によって教育現場における抽象構成の実践例は一挙に増大した。その成果は『建築工芸アイシーオール』の特集「児童における構成教育1」、「同2」にも反映された。こうした動向に注目したのが、学校美術協会Art Education Associationの主宰者後藤福次郎Fukujiro Gotoだった。後藤は自身も美術教師出身で、この時期には雑誌『学校美術』を発行するほか美術教育書籍の出版を手掛けていた。後藤の企画によって、抽象構成の成果を集大成したものが、川喜田と武井の共著として1934年9月に出版された『構成教育大系」(学校美術協会出版部)である。同書には350点を超える抽象構成の参考図版が掲載されており、それは現場の教師にとって有用なものだったと思われる。同書は人気を博し版を重ねていった。
川喜田の構想した構成教育は、そもそも生活全般を構成の対象と考え、構成の主体性を建築家や工芸家といった職業的専門家ではなく生活者自身に取り戻すことが意因されていた。この点からすれば、構成教育が一般教育であることには問題はなかったはずである。構成教育を提唱した当初から彼は次のように述べていたのだ。(Citation)「構成の問題は各専門間の境を、各部門の壁をなくして、大衆生活そのものから大衆自らが掴み得る眼であり、耳であり口である科学です。(中略)この点から、構成の教育は結局、専門教育でなくて、寧ろ一般教育の部類に入るものと云へませう」。
抽象構成が教育現場に導入されていったのに対して、生産構成は建築界からは見向きもされず、学院のカリキュラムのなかにとどまっている。そのカリキュラムも今や縮小されて、学院においでさえ存続中のコースは構成基礎教育すなわち抽象構成のみという状況だった。『構成教育大系」の出版後まもない1935年1月、川喜田は次のように書いた。
構成教育が我国にとり入れられてから既に5年は立っている。その聞に色々な迫害もうけたし、誤解もうけたがとうとう我々の手によって大体縄められ、日本の初等中等教育に適用される様な研究がある程度まで出来たことにもなった。(中略)之以上の発展は専門の立場にたつ特殊な研究家の手にゆだねてよかろう。19
これを書いたのは、川喜田が学院の仕事と並行させて三ツ喜ピルに「川喜田煉七郎店舗能率研究所」を開設した時期にあたる。生産構成を現実の日常世界において実践する必要があった。彼は、『構成教育大系』の出版を区切りとして、教育活動から離れようとしていた。
商店主たちに合理的な店舗設計を説明する川喜田煉七郎(1936年頃). 出典:川喜田煉七郎『図解式店舗設計の実際』誠文堂新光社,1937年.
1934年の秋口から、新建築工芸学院と『建築工芸アイシーオール』に変化の兆しが現われ始めた。7月までは織物、洋裁、建築、工芸美術、構成教育の5コース編成だった学院は、9月になると工芸美術と復活した演劇に構成教育のみの3コースに、翌1935年の春までは構成教育科と演劇の2コース、そして5月にはとうとう川喜田がひとりで行なう構成教育科1コースのみになる。すでに1934年の9月に建築科は廃止されていたが、一方、この頃から学院の「設計部」で手掛ける店舗設計の数は増加し、1935年半ばには川喜田煉七郎店舗能率研究所Renshichiro Kawakita Institute of Efficient Management for Shop and Merchandiseと改称された。
学院の変化にともなって、その機関誌的役割の『建築工芸アイシーオール』も変わるのは当然だった。1935年度中は、学院設計部で手掛けた店舗の事例紹介が増える程度でこれまでどおり特集中心の編集が行なわれていたが、1936年に入ると海外雑誌から寄せ集めてきた短いニュース記事の羅列となり、8月号を最後に廃刊となった。
学院の衰退と入れ替わるように活性化したのが、川喜田の店舗設計活動だった。
小さな雑誌で少ないファンを相手に「アイシーオール」による技術の啓蒙運動をつずけてきたボクが180度転回して雑誌「商店界」を通じて一般業者の方々に「店舗と陳列」の啓蒙をアイシーオールではじめたトコロがオソラク前の百倍千倍の反響をマキおこして「アイシーオール」のホントウの効果があらわれ、忽ち全国のイタルトコロの店にイワユル川喜田式のケースや陳列法が見られるヨウになった。20
「アイシーオールではじめた」とはおもしろい言い回しだ。アイシーオールのやり方でということなのだが、その意味するところは「店舗と陳列の啓蒙」を生産構成として行なったということである。川喜田はかつて構成教育=生産構成を論じたときに、「商店」についてもその方法を示していた。それによると、まず「小商店、デパート、敷地状況」の調査(「構成」)に対して、「家具、広告、商品陳列、照明、換気、動線」の検討(「自然研究」)と「中小商業経営者の凋落、デパートとの対抗、商店の発生と変化、各国との比較」の検討(「社会研究」)を行なう、というものだった。つまり川喜田の店舗設計は、店舗に特化された構成教育=生産構成にほかならない。
彼は店舗設計だけではなく、経営自己診断書の開発も行なった。それは、商店主自らが自店の経営状態を知り、問題点を認識して、経営改善につなげるためのシステムである。以前に彼は構成教育について(Citation)「大衆がその中で如何に自らそだち、如何にみずからならうかが問題となる。(中略)経験のうちから大衆自らの眼と手でもって色々な技術を発見させる事が問題になる」21と書いて、それが自己学習と自己発見の方法だと主張していた。この意味で、彼の能率研究における経営自己診断書は、構成教育の具体的な適用だったといえる。
ところで、彼は「川喜田式」が「全国のイタルトコロ」に現われたと書いているが、これはまんざら大げさな話でもない。彼が設計を手掛けた店舗数は1936年11月時点で473件、3年後の1939年10月時点では864件にのぼり、その広がりは国内のみならず外地ex. Manchuria at that timeにまで至っていた。
こうした広範な活動展開の背景には、テーラー・システムScientific managemet by Frederick Taylorの日本への紹介・普及に努め、一名能率の父とも呼ばれる産業心理学者・上野陽一Youichi Uenoとの出会いがあった。1936年、川喜田34歳、上野53歳の頃である。上野が設立した日本産業能率研究所Nihon Sangyo Nouritsu Kenkyusyo(Japan Institute of Management for Industry)では、全国の会社、工場、商店に所員を派遣して能率増進の指導を行なっていた。派遣された先では上野を信奉する経営者や商店主らがグループで待ち構えており、商店経営の各専門領域ごと に能率増進についての実地指導を受けるというシステムである。川喜田の店舗設計もそうした指導業務の一環であった。この頃の川喜田は上野を「精神的な最高の助力者」といい、川喜田もまた、水田利夫Toshio Mizuta(広告人)、園田理一Riichi Sonoda(後に大阪産業能率研究所所長)とともに上野の3人の高弟として,その経営指導業務の一翼を担うようになっていた。
川喜田の手掛けた店舗設計のほとんどは改築で新築はまず見あたらない。店頭装飾、什器設計のみも少なからずある。そうでなくてはこれだけの量はこなせなかっただろう。「経営と相むすんで、その能率増進、売上増進の極めて具体的な方法を講じ又研究する」のが彼の方法だった。その実践領域として、各種商品に適した「陳列的研究」、商品の寸法・重量・材質・価格を配慮した分類法・貯蔵法・整理法と、それに対応する什器設計を行なう「整理的研究」、ウィンドウや陳列棚や店内構成を変え能率を向上させる「店舗研究」をあげる。川喜田の店舗設計を上野はこう評した。「店舗ノ設計ヲスル人ワ多イ。経営ヲ論ズル人モ多イ。シカシ経営分析ノ結果ニモトヅイテ設計シ得ル人ワ恐ラクコノ著者ノ外ワアルマイ」。
1930年代の後半、川喜田が手掛けた店舗設計は夥しい数にのぼる。しかし、それらが当時の建築雑誌に掲載されることはなかった。要因はいろいろと考えられよう。小規模、改築、低予算、庶民的、悪趣味、雑多・・・あげていけばきりがないが、端的にいうならば、それらはことごとくキッチユ=ロー・デザインであるということになろう。作家性や芸術性という面で、建築雑誌が基本的に高級なものを好むことは昔も今も変わりがない。こうした基準からするなら、川喜田の店舗は箸にも棒にもかからないということになる。
ここで数多い川喜田作品のうちから一例をみることにしよう。大衆和菓子の店「日本橋」である。
名物のおカシがイッパイかいであって、遠くから見ると花がさいたようだ。こうした看板をカタログ看板とゆう。カタログのように売っている品物をイッパイ出すからである。下の店も上のカンパンに負けないようにニギヤカである。売りこんでゆく自製品の名を紙に達筆にかいてブラさげである。22
ハイセンスを自負する者なら、頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまいそうな外観である。キャプションには、消し去ってしまいたい要素がすべてよきものであるかのように説明される。
私たちはすでに川喜田の建築計画案を知っている。不可解といえば、そのとおりなのだ。霊楽堂の荒々しくも繊細なドローイング、浅草改造案のダイナミックな造形と綴密な模型、ウクライナ劇場案の洗練された構成主義と巧みなプレゼンテーション。それらはみな、ハイ・デザインといってよいものばかりだった。同じ作者によるとは思えなくとも無理はないだろう。
しかし、こうした店舗作品はまぎれもなく川喜田によるものだし、さらに重要なことは彼のなかでは、これらの店舗設計のほうが、かつての計画案よりもはるかに進んだ作品であり、確信に満ちた自信作だということだ。
建築家は今迄商店に就て(中略)余りに目をふさいで来ていた。(中略)建築といふと殆んど住宅の様な新築が考へられ、狭いところをともかく、売らんが為食わんが為にたとへ一時的にでもどうにかつくろって効果を挙げるといふセツパツマツタ建築に就て改造に就てあまりに重点をおかなかった。しかし商店建築の大部分は殆んどこれであり、そこに商店建築の特殊な認識が必要となってくる例へば、ある店の改造に要する予算が300円しかなかったとして、それを何んとか完全に費って倒れかかった店をそれだけでどうにかしてくれと相談を、つける様な場合は実にザラにあるのだ。(中略)これで半年なり一年なりのうちにその店がある点まで成功したところで、今度は800円なり、1000円なりでもって第二次の改造をやり、その次の仕事にかかるのである。(中略)一ぺん建ててしまつたら永久的にそれがその設計者の作品となるなどといふ事は全く考へられない。23
川喜田の構成教育=生産構成は、五感を動員して現実を把握し、それに科学的な検討を加えることだった。目前のリアリティから出発するのが構成の理念だった。店舗設計の場合、その現実のほとんどは「倒れかかった(倒産しそうな)店」だというのだから、構成を理念どおりに実行すると新築など論外であり改築になるのが当然なのだ。その改築が功を奏して店舗経営に新たな現実をもたらしたとき、その現実はまた新たな生産構成を要求するだろう。このようにして「常に動き、常に変化し、永久に止まるところを知らない」のが商店建築だと彼はいう。
川喜田の店舗設計にとっての最重要課題は能率増進である。それは、商いという人間行動に合理的なかたちを与えることである。平面や什器や展示装飾をどのように仕掛けたとき、人とモノはどう動くのか。商いをめぐる能率は、ダイナミックに変転する動態そのものであるはずだ。それはこれといった姿をもたない、いわば透明な機能主義だといえよう。川喜田にとってそれは、機能主義の美学に陥っていた1920年代の計画案を清算した結果であった。
しかし、物体として存在するからには、そこには必ず姿かたちが付随する。とくに店舗の場合は、看板は重要である。その際、意匠はあくまで経営者と客との関係線上に設定され、この観点からしか説明されない。古めかしい和風意匠が取り入れられるのは、都会の客は古いものを珍しがるからであり、ファサード全面に扱い品目のイラストを散りばめるのは、壁面のカタログ化だと説明される。商業主義的パナキユラーである。それは、能率という透明な機能主義のうえに、大衆の晴好を纏わせることにほかならない。生産構成が理念としての純粋性を保とうとして建築家の恣意的な美学を否定した結果、大衆的なあらゆる意匠が許容される。建築家は構成を、大衆は美学を分担するという構図なのだ。
川喜田の仕事が社会に受け入れられたことは、なによりその量が示していよう。彼はそのことを(Quotation)「はじめて社会的な役割を掴み得たりと自覚す」24と述べる。「社会的な役割」、それはまさに建築運動のなかでアヴァンギャルドが求め続けながら、ついに最後まで得られなかったものではなかったか。川喜田は、モダニズムを現実に帰結させる遍歴の末に、ここにたどり着いた。しかし、彼の仕事を、建築家の仕事として、ましてやモダニストの作品ととらえる文脈は、そこには存在しなかったし、事情は今日でも変わらない。
川喜田が設計した菓子店のファサード(1936年頃). 出典:川喜田煉七郎『図解式店舗設計陳列全集1』モナス,1940年.
太平洋戦争勃発の一九四一~四二年以降、戦時統制経済の強化により民需が抑制されると、店舗設計という仕事は成立しなくなっていった。こうした情勢の変化にともない、川喜田の能率研究活動は商店の経営指導から軍需工場の改善指導へと変化していった。しかし、商店から工場に対象が変わろうと、そこに能率が要求されることに変わりはない。それどころか、能率への要請はますます増大しつつあった。したがって、川喜田が店舗を軸にして開発してきた能率研究のシステムは、対象に応じて改変すれば時代の新たな要請に対応できるものだったのである。そのようにして彼は工場能率学の一分野としての工場設計をめざし、大阪府産業報国会嘱託として工場給食施設の改善などに関わった。工場は、新たな「構成」の対象であった。
しかし、緊迫する時局が川喜田にもたらしたのは、構成教育=生産構成の新たな対象だけではなかった。意外なことに、構成教育=抽象構成に関して、いったんは離れたはずの教育界から、新たな要請がもたらされたのである。
1938年12月に教育審議会が出した答申は、やがて設置される国民学校Kokumin Gakkou(School for primary and first half of secondary education in wartime)の教科として皇民ethics、理数science and math、体錬phys.、芸能(「芸術技能」の略)skillsの四科をあげ、芸能のなかに音楽、習字、図画、作業、家事、裁縫の六科を置くとしていた。こうした動きをとらえて、学校美術協会の後藤福次郎は、「図画手工科の刷新振興策として構作科Course of design and worksを創設せよ」というキャンペーンを展開した。
其後、教育審議会や文部省の方では、国民学校案の細目の制定に入ったが、聴くところによると、芸能科のなかに「手工」は無くなって、「作業」といふのを設ける。それはこれ迄の手工と理科の園芸を一つにしたものだ、との事だった。私はこれに反対して、文部省の普通学務局長や督学官に会ひ、屡々意見を述べた。それは、これ迄の大工の真似事のやうな手工もよく無いが、と言って今更学校の正課で草花いぢりでもあるまい。一方、今後の我国には、生活の合理化・能率化のうえでも、生産増強の面にも、或は国防・戦争等に於ても、科学と相候って、物を考案し、製作してゆく技術や、或ひはいろいろの機械を分解したり組立てたり、操縦したり、修理したりする頭と技術が絶対必要になる。今後はさういふ学科を重視すべきであり、その名称は「工作」とするのが適切だ―といふのだった。25
後藤のいう構作とは構成+工作integration of design and worksのことだが、ここには従来の構成教育=抽象構成に工作的要素を加えることで時局に適合させようという意図がある。従来の美術科教育をより生産的、実用的にすることが、後藤の主旨であった。この後藤こそ、かつての『構成教育大系』の仕掛け人であり、キャンペーンには同書の共著者だった武井勝雄Katsuo Takeiのほか、岩崎喜久Yoshihisa Iwasaki、矢吹誠Makoto Yabuki、間所春Haru Madokoroら、新建築工芸学院の研究員でもあった美術教師たちが加わっていた。結局構作科は実現しなかったものの、教育審議会の答申にあった作業科は、その後激しい議論を経て工作科とすることで決着し、芸能科工作という科目が誕生する。そこで後藤は、かねて主張していた「構作」の内容を盛り込んで2冊の本を企画した。それが川喜田による『構作技術大系』Kousaku gijutsu Taikei(A collection of technique for design and works)(1924年)と、後藤Gotoh、川喜田Kawakita、岩崎Iwasaki、矢吹Yabuki、武井Takei、稲村退三Taizo Inamura、上田駒男Komao Ueda、小松崎茂Shigeru Komatuzakiの共著による『創意工夫辞典』Soui Kufu Jiten (A collection of inventive idea)(1943年)である。
『構成教育大系』は、抽象形態を題材にして強さや美しさを生む構成原理を説くものだった。『構作技術大系』ではそうした構成原理が、日常生活の各場面や日用の道具や機械にどのように潜んでいるかという解説に加え、「感覚→機能→能率」(第5章)や「機械と能率の問題」(第6章)のように、能率増進によって日常生活を時局に適合させる方法が説かれている。『創意工夫事典』では書名に象徴されるように、前書と同じ主旨が日用器具や機械ごとに整理されている。これら一連の書籍は、いわば構成教育三部作といえる。
後藤らの意図は、それまで美的陶冶偏重であった美術科教育に技術教育的な性格をもたせ、「発明考案・創意工夫」を促す創造性の涵養を目的とするものである。その意味では、人格的陶冶を目的として1930年代初頭から小学校教育において主張され始めた「労作教育」とも、たとえ非能率であっても労働を遂行する勤労精神を涵養するとした「作業科」とも異なる。
1941年4月1日、小学校は国民学校になった。芸能科の教師用書巻頭には指導の精神が次のように述べられていた。(Citation)「児童将来の多様なる発展の自って出るその基礎に培へばよいのであって、専門じみた純粋美術の教育とか、小芸術家を育てるかのやうな教育に流れてはならないのである」26。この指導精神は、構成教育=抽象構成に関して川喜田が主張した(Citation)「かうした練習は個性的な芸術家をつくり上げる代りに、平均した技術家をつくりあげる為めの進歩した教育法だと云へます」27とも、ウクライナ劇場案の入選に際して述べた(Citation)「豊富な常識の発達した円満な技術家」28とも、すべてではないにしても通底している。
そうさせているのは、技術の自律への信奉であろう。ふりかえってみれば、建築運動の季節に川喜田が主張していた合理主義にも、構成教育における生産構成にも、原理や原則、法則への強い志向があった。能率はその最たるものである。そのような抽象化志向は、技術の自律を助長することになり、その反面として、技術が還元される社会に対する態度は脱政治的なものになる。川喜田に工場設計と構作技術を要請した時局は、彼にとって、はからずも技術を純粋に遂行する環境であったかもしれない。
*
川喜田煉七郎の1930年代は、夢想的な計画案から構成教育を経て店舗設計に至った。それは、ユートピアから現実へと結ばれた軌跡であった。一見したところ一貫性を認めにくい活動形態の変容は、しかし、目的合理的ともいえる行為選択によるものだったといえる。つまり、計画案の制作を通じていったん理念化された建築、その理念を現実社会で展開させるための方法論としての構成教育、構成教育を現実に適用させた店舗設計という展開である。こうした活動変化は、理念を現実へと帰結させるという目的に対して問題解決的になされた結果にほかならない。